自殺の季節。女子アナも、ヴィジュアル系アーティストも、異色の漫画家も、風薫る5月に旅立った。
昭和から平成へと移りゆく「時代」に見えて「平成の死」と「令和の生き方」
■平成に世界を席巻した”日本の漫画”。その作り手たちの自殺
hideの死から8日後には、女流漫画家のねこぢるが31歳で首吊り自殺。可愛らしさと残酷さとが交錯する作風には、ファンタジー願望と破滅もしくは破壊衝動が同居していた。夫であり、共同制作者でもあった漫画家の山野一は「子供大王」と呼んでいたという。嘘がつけないから、平気で人を傷つけるし、自分も傷つく。それゆえ、彼女は鬱病にもなり、自殺未遂も繰り返していた。
そんな彼女がブレイクしてしまうのである。『ねこぢるうどん』などの作品が「危なかわいい」ともてはやされ、東京電力の広告キャラまで描いた。頑健な人でもこたえるという売れっ子漫画家の超多忙状態に、そのメンタルが堪えられるはずがない。疲弊してパニックになり、夫の山野にカッターで切りつけるようなことまでしたあげく、自らを葬った。
彼女が当時連載していたなかで『テレビブロス』での最期の作品は深夜にやたらと流れるCM(西田ひかるのハウス・ピュアインゼリー)への辟易を示すものだった。明るいポジティブの商業的な押しつけは、こういう人には特につらかっただろう。
その6年前の5月24日には、同じく漫画家の山田花子が自殺した。本業だけでは生活できず、バイトをしても対人恐怖症でうまくいかず、統合失調症と診断されて2ヶ月半入院。退院した翌日、自宅近くの団地の11階から飛び降り、人生を24年で強制終了させたのである。
死の2日前、彼女は日記にこう書いていた。
「他人とうまく付き合えない。暗いから友達ひとりもできない。(略)もう何もヤル気がない。すべてがひたすらしんどい、無気力、脱力感」
そんな生き地獄から抜け出すには、死ぬよりほかなかったのだろう。
一説によれば、人は誰もが「死にたい」という衝動を抱えている。それが度を超すと精神医学では「希死念慮」と呼ばれることに。つまり、本気で死にたくなるのはそれ自体が病気なのだ。今のところ、特効薬もない。不治の病が減っていく傾向がこれからも続くとしたら、自殺への衝動は人類最後の難病かもしれない。
文:宝泉薫
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『平成の死: 追悼は生きる糧』
鈴木涼美さん(作家・社会学者)推薦!
世界で唯一の「死で読み解く平成史」であり、
「平成に亡くなった著名人への追悼を生きる糧にした奇書」である。
「この本を手にとったあなたは、人一倍、死に関心があるはずだ。そんな本を作った自分は、なおさらである。ではなぜ、死に関心があるかといえば、自分の場合はまず、死によって見えてくるものがあるということが大きい。たとえば、人は誰かの死によって時代を感じる。有名人であれ、身近な人であれ、その死から世の中や自分自身のうつろいを見てとるわけだ。
これが誰かの誕生だとそうもいかない。人が知ることができる誕生はせいぜい、皇族のような超有名人やごく身近な人の子供に限られるからだ。また、そういう人たちがこれから何をなすかもわからない。それよりは、すでに何かをなした人の死のほうが、より多くの時代の風景を見せてくれるのである。
したがって、平成という時代を見たいなら、その時代の死を見つめればいい、と考えた。大活躍した有名人だったり、大騒ぎになった事件だったり。その死を振り返ることで、平成という時代が何だったのか、その本質が浮き彫りにできるはずなのだ。
そして、もうひとつ、死そのものを知りたいというのもある。死が怖かったり、逆に憧れたりするのも、死がよくわからないからでもあるだろう。ただ、人は自分の死を認識することはできず、誰かの死から想像するしかない。それが死を学ぶということだ。
さらにいえば、誰かの死を思うことは自分の生き方をも変える。その人の分まで生きようと決意したり、自分も早く逝きたくなってしまったり、その病気や災害の実態に接して予防策を考えたり。いずれにせよ、死を意識することで、覚悟や準備ができる。死は生のゴールでもあるから、自分が本当はどう生きたいのかという発見にもつながるだろう。それはかけがえのない「糧」ともなるにちがいない。
また、死を思うことで死者との「再会」もできる。在りし日が懐かしく甦ったり、新たな魅力を発見したり。死は終わりではなく、思うことで死者も生き続ける。この本は、そんな愉しさにもあふれているはずだ。それをぜひ、ともに味わってほしい。
死とは何か、平成とは何だったのか。そして、自分とは――。それを探るための旅が、ここから始まる。」(「はじめに」より抜粋)